大宝寺氏(だいほうじし)は出羽の大身。本姓は藤原氏。鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする武藤氏の流れを汲む。
大宝寺氏は鎌倉時代に庄内地方の地頭として入部したのが始まりであると言われている。最初は武藤姓を名乗っていたが、大宝寺城に居住したため、姓を大宝寺と改姓した。南北朝時代に庄内地方を中心にして全盛期を迎えたと言われている。
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戦国時代に入ると、砂越氏をはじめとする一族重臣の反抗に遭うようになり、衰退の兆しを見せ始める。しかも大宝寺氏の所領が肥沃な庄内平野であったこと、最上川や酒田湊の水運による富に恵まれていることなどが災いして、その利権を虎視眈々と狙う最上氏や上杉氏の侵攻をたびたび受けるようになる。
戦国時代後期の当主・大宝寺義氏は、最上義光と対抗するために当時の天下人・織田信長と誼を通じることで対抗した。これにより、義氏は信長から『屋形』の称号を与えられている。確かにこれは間違いではなかったが、信長死後の1583年、義光に通じた家臣の東禅寺義長・東禅寺勝正兄弟によって義氏は討たれた。
義氏の死後、その後は弟の大宝寺義興が継いだが、その義興も1587年に最上義光によって討たれた。義興の後は義興の養子であった大宝寺義勝が継ぎ、上杉氏を通じて豊臣秀吉に臣従することで命脈を保とうとしたが、1591年に一揆扇動の咎により改易され、ここに戦国大名としての大宝寺氏は滅亡した。
その後、義勝は上杉氏の家臣になったが、実父である本庄繁長の死後にその家督を継いで「本庄充長」と改名したために大宝寺氏の家系そのものが断絶してしまった。